精神世界は現実社会に落とし込んでこそ本物!共生社会を共同建設する「イヤサカの会」のスピリチュアルブログです。

マリア&弥勒の世へ向かう人間の道

マリア&弥勒の世へ向かう人間の道

前回と前々回に私がこのブログにあげた以下2つの記事は、これまでの精神世界(スピリチュアル、宗教、信仰を含む)に修正を促すものでした。

【パラレルの進化】これからの新しいスピリチュアルは「ひとりスピリチュアル」
【マリア像の涙】喜怒哀楽のうち、命の輝きを象徴する最も美しい感情は「哀」

それは、これまでの精神世界が間違っていたという意味ではなく、人類が新たな段階へ入ったことを申し上げたつもりです。

今、一人一人のパラレルワールドが自立し始めており、私たちの心の育成のあり方を「集団スピリチュアル」から「ひとりスピリチュアル」へシフトさせていくタイミングが来ています。
そのために、自己のイマジネーション力を育てることが大切です。


本日の原稿は、ライオンズゲートと言われた8月8日にまとめ上げたものです。

私の中では、このたび初めて弥勒の世(みろくのよ)の意味についてのインスピレーションを得ました。
そして、これまで精神世界にフォーカスしてきた人ほど、自分の方向性を変えることを考えなければいけないタイミングに今はあるということを強く感じています。
その混乱もあるので、これから少しの間は意見の対立も起こりやすいでしょう。
より寛容な考え方、相手の自由を認めることの出来る思考、地に足つけてしっかりと現実を生きることの出来る思考が大切ではないかと思います。


農村

昔の子供たちは、家族や親戚、近隣との付き合いが密な社会で育っていました。子供たちはそのような環境の中で、人と人とのコミュニケーションの仕方や、助け合いの心を学びました。

昔は大家族だったので、子供たちはおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしていました。また、昔の人は病院ではなく自宅で息を引き取ることが多かったので、子供の頃から人の生き死にを身近なものとして体験していました。

さらに、その頃の子供たちは近くの川で泳いだり鎮守の森で遊ぶ習慣があったので、自然との触れ合いを直に感じながら自由に情緒を発展させていくことが出来ました。

このように、昔の子供たちは人としての心を育てる機会をたくさん得ていたのです。


しかし、現代に生まれた私たちは、そのような機会を得ることが少なくなりました。
無機質な環境の中に生きてきた現代人が、本能的に求めて起こしたのが宗教ブームやスピリチュアルブームだったのではないかと思います。

宇宙意識

一般的に宗教やスピリチュアルで定番的に学ぶテーマは「愛」と「感謝」です。
その愛は恋愛の愛とは少し違いますし、感謝は単なる感謝ではありません。宇宙意識としての無条件の愛、無条件の感謝です。

新興宗教の教祖様と呼ばれる人たちの中には、そういう高度な宇宙意識を完全に体得したつもりになっている人たちが多いと思います。
かつて社会問題になったカルト宗教の中には、「正しくない者は殺しても良い、来世でやり直しをさせてやれば良い、それが愛だ」という思想を持つものがありました。
文字通りに人を斬り捨てることを、愛とするのです。

そこまで内容が極端でなくても、ひとりの教師から集団で学ぶ形のスピリチュアルの中には、高度な意識ばかりを強調して、人情や哀れみや思いやりといった人間的な意識を軽んじているものが少なくないように思います。
難しい概念にフォーカスし過ぎた結果、学びを求める人たちは「愛を理解しなければいけない」「感謝しなければならない」と、いつまでも到達することの出来ない努力目標を持たされることになります。
大らかさを失ったそのようなスピリチュアルは、内部分裂や社会との不調和を起こしやすいものです。


私は、宇宙意識レベルの無条件の愛や感謝に到達している人は、地球上には存在していないのではないかと思っています。
人間がもしそのような高度な意識に到達してしまったとしたら、腹を立てたり悲しんだりといった感情や、承認欲求といった人間的な意識が一切無くなってしまうはずです。少なくとも私はそのような人を見たことがありません。
私たち生身の人間が真の宇宙意識に到達するのは、それだけ難しいということなのです。
宇宙意識を極めようとすれば、それはいつまでも尽きない執着となってしまうでしょう。したがって、むしろそれは必要の無いことです。

これからのスピリチュアルは、宇宙意識よりも有限の命を尊ぶ心、他者の悲哀に共感して涙する心、美しい風景を見て感動する心、人情や愛情……、すなわち、もののあはれを感じる心「哀」にフォーカスすべきと思います。
難しいスピリチュアルから、易しくて優しいスピリチュアルへの転換です。それは教師から学ぶという次元のものではありません。
もしこれからスピリチュアルをワークショップとしてやるのならば、皆で野山へ遊びに行くだけで良いのではないでしょうか。
神社仏閣やパワースポットへ行く必要もありません。少人数のほうが良いでしょう。瞑想のような難しいことを皆でやる必要はありません。ただ体を動かして自然を感じてくるだけで良いと思います。

「愛」については、これからは男女の愛、親子の愛といった、人間関係の中で言う愛情にフォーカスしていくほうが良いと思います。
そういう人間的な愛は、助け合って生きること、子孫を繁栄させることといった命を尊ぶ本能的な意識と関連しており、「哀」を源とする情動に含まれます。
最近世の中で起きている事件などを見ると、昔の人と比べて現代人には愛情が欠けてきていることを感じます。

Maria

人間の4大感情「喜怒哀楽」のひとつである「哀」は、人がごく普通の生活を送っている中から自然と湧き上がってくる感情であり、それを源とする発言や行為には偽りや建前がありません。
そのような感情は、男性よりも女性のほうが多く持っていると思います。
一般的に男性よりも女性の言葉のほうがストレートで建前が少ないのはそのためだと思います。
男女の役割の違いがその原因になっているのですが、しかしこれからは、男性たちも、もののあはれを感じる心を育てていく時代に入りました。それが女性性の時代です。
マリア像の涙が、そういう時代がとっくに来ていたこと私たちに示唆してくれています。

では、私たちの内側にそのような情緒をバランス良く育てるためには、どうしたら良いのでしょうか。
それは、感動体験を重ねることだろうと思います。
感動体験を重ねるための手段は、その人のパラレルワールドごとに違うと思いますから各自で考えてください。
感動体験を積み重ねることの出来た人は、いわゆる幸せな人です。
幸せな人は、相手の立場や状況を想像してみる心の余裕があります。人の痛みがわかります。イマジネーション能力が高いのです。それが、哀にあふれた人です。
哀にあふれた人ばかりになれば、世の中から戦争が無くなります。


「弥勒の世」とは何でしょうか。

弥勒とは菩薩の一人です。
日本には観音菩薩とマリアを重ねてマリア菩薩という概念もあるので、女性性の時代を意識するならば「マリアの世」と言っても良いでしょう。
柔軟性の無い人は、マリアの世なんてそんな言葉は聞いたことがない、勝手に言葉を作るなんて何様だ、と言うかもしれません。それがいけないのです。今は、その人その人の自由な感性を大切にしなければなりません。
古い常識なんて、あなたが変えてしまえば良いのです。そういう自由を互いに認め合うことです。

弥勒の世とは、神の世界でもなければ、宇宙意識に到達した人たちの世界でもありません。
仏教において如来は悟りを開いた者のことを言いますが、菩薩は悟りを開く前の修行者のことを言います。
「弥勒の世」とは、肉体をもった私たち人間が次に行き着く「哀」にあふれた世界のことです。
私たちの一人一人が、人間弥勒菩薩となり、人間マリア菩薩となるのです。

(やしろたかひろ) ※Facebook友達募中

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