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「愛」と「原発」と「自然エネルギー発電」

「愛」と「原発」と「自然エネルギー発電」

中部大学・武田邦彦教授の音声メッセージ(2015年2月23日付)の紹介から。

【音声メッセージの書き起こし】

画像の説明

かつて「石炭を焚かなくても水の流れを利用して電気を作ることができる」といって日本でも盛んにダムと水力発電所が作られたことがありました。私の小さい頃、ダムは日本の発展の象徴でしたし、水力発電所は自然と調和した環境によいものとして大いにもてはやされたものでした。

(中略)

ダムを建設するときには付近の住民を集めて説得するために公聴会を開きます。たとえば黒部ダムの場合は、ダムを造ってもただちに近くの住民にメリットがあるわけでもなく、関西電力はダムで作られた電気を金沢の方に送るのですから、近くの人から見ればダムだけができるということでもあるからです。
そこで電力会社は、国の発展のため、洪水がなくなる、観光産業が興るといろいろなメリットを強調して地元の賛成を得るという手続きを踏んだわけです。

でも、私は考え方が違い、15年ほど前の本に「ダムを造るときの公聴会には魚のお母さんを呼ばなければならない。そうしたら魚のお母さんはこう言うだろう。『私には育ち盛りの子供が2匹います。もしダムができたら水が涸れて子供たちは死んでしまいます。あるいは、ダムを放水する時にはどっと水が流れて来るのでそれでも死んでしまいます。人間にとっては、ダムを造ればテレビを見ることができる電気が来るからよいのでしょうが、私たち親子の生死がかかっているのです』と訴えるのではないか」と書きました。

(中略)

川は人間のためだけにあるのではありません。川の流れるエネルギーというのは、もともとは太陽の光が海水面を照らすバイオのエネルギーで水が蒸発し、それが上空で雲となり、風で流されて山にぶつかり、雨を降らせ、それが川となって流れるわけです。

元々は太陽のエネルギーであり、光なのですが、それを利用して生活しているのが魚であり、河畔に生えている樹木であり、川を転がる小石です。鳥がさえずるのも、平野ができるのも、すべて太陽のエネルギーの結果であり、それを自然は余すところなく使っているのです。

人間から見ると川は無駄に流れているように思いますが、自然は結構、節約家で、実際は川のエネルギーはとことん利用されているといって間違いないと思います。そこに人間が割り込んで川のエネルギーから電気を取るのですから、人間が電気を横取りする分だけ自然は痛むのもあたりまえです。

それが明らかになってきたのはダムを造ってから20年ほどたったときでした。日本ではダムの下流の自然が破壊されていきます。ダムの水の中には腐ったものがありますから、それを放水すると下流の川は全滅するという事態もありました。

(中略)

風力発電

それと同じように私が15年ほど前に書いた本に「風力発電は自然を破壊する」という一節を書きました。その時は社会から、「そんな馬鹿なことはない。風から電気をとったって風は何も変わらないじゃないか」というばからしいバッシングを受けたものです。

(中略)

でも、風もまた川と同じように太陽エネルギーの変形で、風が吹くから樹木の葉から水分が蒸発しで樹木が生きる。木は根から水を吸うが、主に葉から蒸発させて、人間が熱中症になることを防ぐのと同じことをしている。また地面も風が吹くから乾き、風が無くなれば苔だらけになる。そして花粉が飛び、鳥が舞うことができるのです。
ところが、その風から人間が電気になるエネルギーをとれば「エネルギー保存則」で風は弱まり、風の下手の樹木は枯れて、地面は湿気るのです。

ここでは風力発電、水力発電という二つの例を挙げましたが、私たちはあまりにも頭でっかちになり、それも中途半端な頭脳の理解と判断で、自分にだけ都合のよいことを「自然や他の生物も同時にメリットがある」と錯覚するんです。
現在は、太陽光発電なんか典型的です。石油を焚かなくてもいい。でも太陽光は人間だけではなくあらゆる生物が使っているから相当な打撃になる。

人間は心のどこかで、自分が何をしているのかが分かってるのだと思います。自分以外の生物のおかげで自分が生きているという事も知ってると思う。(中略)
つまり我々の心の中には「愛」というのが存在するわけです。それは利己的ではないわけです。ところが、短絡的な頭脳で考えると、すぐ利己的になります。
利他的な事、つまり共生が人間の本質ではないか? そうすると、それが現代人の最大のストレスになっているのではないか? 
つまり、我々は本当は利他的である。他を愛する生物である。ところが、他を愛する生物であるはずの人間が、頭脳で考えると利己的になる。それはおそらく人間の本来の心とは違うので、この歪みというものが私たちの心に大きな負担をかけているのではないかと思うのです。

大学の先生が「愛」をテーマにメッセージを発信しているので、私は感激しました。
そしてこの内容は、「原発を支持する人は悪で、水力や風力や太陽光など自然エネルギー発電を支持する人は善である」という理論は全く成り立たないことを意味しています。

武田邦彦教授は原発問題のスペシャリストであり、積極的に放射能の危険性を説いてこられた方です。また同時に、学者としてこのように中立的な発言をされてきました。
ところが、武田教授が原発反対運動の集会へ行くと「出ていけ!」と言われて追い出されるのだそうです。
この話を聞いた時に私は、原発に反対の立場を取りながら活動をしている人の中には、「社会活動家」と「抗議活動家」と別々に2種類いるのだと思いました。

社会活動家とは、物事を多面的にとらえて、具体的にどうすれば皆で幸せになることが出来るかを考える人であり、他を愛する心のある人です。
抗議活動家とは、自分が嫌いなものを問答無用で全否定する。抗議することが専門で、物事を多面的に見ることができない自己愛だけの人です。

このメッセージの中では黒部ダムが例に出てきますが、それと同じように福島の原子力発電所の電気は福島の住民に供給されてきたわけではなく、首都圏へ送られていました。
311が起こる何年も前から、佐藤栄佐久前福島県知事が先頭を切って国の原発政策の矛盾を指摘し、その危険性を主張して東京で公聴会を開いたりしてきた経緯があります。

しかしその間、原発の受益者である首都圏の人々はのんきなもので、311が起きて爆発してしまってから大騒ぎをして原発反対運動を起こしました。
福島にあった原発が爆発したら放射能が東京にも飛んできて自分たちにも影響しそうなので、怖くなってきたから反対運動を起こすのでは、福島の人々から見たら無責任極まりないことでしかないのです。

佐藤前知事は、原発自体に反対だったわけではありません。あの事故の原因は東電の経営者の問題などではなく、国の原子力政策の体質に問題があったと自己の著書の中で指摘しています。

福島の人々が犠牲になってくれたことによって、福島がいろいろな意味で教訓になりましたから、これから先、日本ではあのような原発事故はもう起きないでしょう。
今、福島の人々が望んでいることは、全国にある原発を廃炉にするかしないかという議論よりも先に、311で破壊された原発の収束作業や除染作業の進行を含めた健康被害の防止と、いまだに故郷へ帰ることができない住民たちをどうするかといった問題を早く解決して欲しいということなのです。
起きてしまったことを振り返って抗議活動をし、ただ原発反対を言っているだけの人たちは、その行動のエネルギーを福島の人々の思いへ向けて欲しいと思います。

物事を、善だ悪だ、賛成だ反対だと言っているだけの世界に正義はありません。
「正義は愛の中にしか存在しない」と、私は思うのです。

(やしろたかひろ)

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